1970年2月10日リリース
作詞・作曲 早川 博二
編曲 早川 博二
『老人と子供のポルカ』は左卜全とひまわりキティーズのデビューシングル。
左は当時76歳であったが、これは当時としての日本音楽史上最高齢の歌手デビューとして話題となった。また、バックコーラスを受け持ったひまわりキティーズは、劇団ひまわりの子役である女子小学生5人で構成されたグループであった。
左は1914年(大正3年)から1915年(大正4年)にかけて帝国劇場に属してオペラを学んだ実績もあり、歌の素養がないわけではなかったが、表面上は「事務所が勝手に話をまとめてきたのでやむなく唄う」という姿勢を崩さなかった。収録でも「自分は機械人間ではないので、言われた通りに歌うことはできない」と我流を通し「こんな曲が売れるわけがない」と主張していた。
しかし、いざ曲が発売されると、老人と子供の意外な組み合わせと左の唄声の絶妙なリズムのずれで注目を集めた。レコードも小学校低学年や、その親世代の主婦を主要購買層として好調な売れ行きを示し、5月には『コンフィデンス』誌のシングルチャート(オリコンチャートの前身)で10位に入った。最終的にはレコード売上は約24万枚、1970年度オリコン年間第45位を記録した。大ヒットしたにもかかわらず、買い取り契約であったため、左には20万円しか支払われなかった。
左は『老人と子供のポルカ』はヒットするとは全く考えておらず、ヒットしたときのインタビューでも「ありゃもうおしまい。5月までじゃな、アーハハ」と、余裕の表情だったという。
歌の収録が決まっていた時は特に体調管理に気をつけており、収録の1週間前から当日までクロロフィルを欠かさず飲み続けていたと言う。
『老人と子供のポルカ』のレコードの収録の際、左の歌い方が遅くて演奏やひまわりキティーズの歌声と全然噛み合わず、何度も録り直しをして6時間かけてようやく収録している。しかしこれによりひまわりキティーズには迷惑をかけたものの、左自身は疲労を見せるどころか全く平然としていたと言う。
テレビ中継や収録で歌うときも口パクを嫌って地声で歌っていたが、演奏と歌がなかなか噛み合わず、演出担当者が指導しようとすると「機械のほうで俺に合わせろ!!」と啖呵を切り、マイペースで歌っていたと言う。そこで演出担当者は歌が途切れそうだった時はミキサーを調整して流すと言う手法を使って本放送を凌いだと言う。啖呵を切る一方で本番で歌い終わった後は必ずスタッフ全員に「皆さんお疲れさんでした」と労いの言葉をかけてから帰ったと言う。
左は本作発表翌年の1971年(昭和46年)5月26日に死去。葬儀の際にはひまわりキティーズのメンバーも駆けつけ、この曲の大合唱で葬送した。
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